日本がアメリカを赦す日 |
精神分析学は社会心理から個人心理を研究する方向で発展してきたと考えているフロイト派の理論的精神分析学者の岸田秀が、自身のルーツから長年思索を重ねてきた日本とアメリカの精神的病理についてまとめたもの。アメリカは建国時のインディアン虐殺などの自己欺瞞を続けるためにベトナムやイラクを繰り返してきたとか、日本はペリー以前にも独自の地理的条件から外的自己と内的自己に分裂した状態で揺れ動きながら世界になんとか適応してきたなどと主張している。
読んでいきなりくだけた文章に出会ってガッカリ感が起こる。あとがきを読むと分かるがこの本のベースは熱心な編集者による口述筆記だという。ただ、作者によるとさすがにそのまま本として出す気がせず、自分が生涯にわたって望んで研究してきたテーマなのでここらで真剣になって突き詰めて研究しなおそうと思い、ゼミの学生にも広く意見を聞いて戦後数十年たった今の日本の若者の意識を探り、改めて今一度自説を検証しつつ深く広く研究を進めていってまとめなおしたものらしい。
深さという点においては、これまで作者の日本についての精神分析の原点として、いわゆるペリーショックと呼ばれるアメリカによる強制的な開国よりもさらに遡り、もともと日本は古代中国との絶妙な距離感からすでに精神分裂気質であったという結論に達している。ここで私が一応解説しておくと、通常は強いものに従わざるをえない過酷な生き物の世界で、日本はほどよい距離を隔てた島国という好条件のため、自分を偽っても生き残ることが出来たのだ。ちょうど現代のニート世代が親の庇護のおかげで社会に適応しなくても「自分はやればできる」と思い込むことが出来るのと似ている。そうなると現実と乖離した肥大した自我を持つようになり安定した精神状態でいられる。そのため日本は本当は海から渡ってきた雑多な民族が集まって適当に生まれた国家なのに、単一民族で神が降臨して生まれた国なのだという妄想のもとにまとまることができた。
広さという点においては、このような日本みたいな国は世界中あらゆるところに存在するのだということに作者が気づいた。作者は世界中の国々を自らの「史的唯幻論」で精神分析する野心を語る。しかし齢七十過ぎの身には老い先短くて無理なのだと投げ出している。この投げ出しっぷりは岸田秀の最大の魅力だと思う。ここまで自分に正直な人は学問の世界にはいないんじゃないだろうか。ともかく、研究分野自体を作る人間が学者の中で一番偉いので、もし作者が提唱するこの方法論が多くの人々に受け入れられたらそれだけで学問の一大成果であり、この人のもとに多くの学者がついてくるんじゃないかと思う。私は史学についてあまりよく知らないのだが、史学に精神分析の方法論を持ち込むというのは非常に画期的というばかりでなく、間違いなくものすごい成果を生むと確信する。ただ、偽科学であると決め付けられることの多い精神分析学を果たしてどの程度この分野の学者たちが受け入れるかであろう。最初は精神分析学ということにこだわらず、歴史のパターン化を精神分析学のモデルに近い形で当てはめて分類することから始めるのはどうだろうか。
解説で東谷暁という人が、トム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」について言及しているのを読んであっと驚いた。オールグレン大尉はインディアン虐殺の経験に苛まれたままの状態で日本にやってきて幕府の軍事顧問をしているうちに、反逆者たちの姿がインディアンと重なっていく。そのあとオールグレン大尉は彼らに捕まってしまい、これまで抱いていた野蛮なイメージとは正反対に彼らから扱われたとき、彼の中の自己欺瞞つまり「インディアンは討伐して当然だった」が崩壊した。なるほど、そういうことか。私はこの映画がさっぱり面白くなかったのだが、このように考えると物語に説明がつく。逆に言えば自己欺瞞していない観客にとっては面白みのない作品である。この構図に気づいた岸田ファンは多かったのではないか、という解説者の言葉がこれにまったく気づかなかった私の胸に刺さる。
ところで私は五年以上前にアメリカ人にインディアン虐殺について訊いてみたことがあるのだが、今のアメリカ人はどうやら病原菌ということで説明しているらしい。前に流行ったジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」あたりで支配的になった考え方だろう。仮にインディアンの死の多くが病原菌によるものだったとしても、虐殺も行ったことは否定できない。こうして今も自己欺瞞を続けるアメリカは、反復強迫で相変わらず同じことを続けている。
作者の主張の中で特に印象に残ったのは、日本がアメリカの幻想にとって非常に好都合な存在だったということだった。アメリカの幻想というのは、インディアンのような未開の人々に自分たちの文明の素晴らしさを教えるというものだ。かつてアメリカはインディアンにも本当はそれを実践しようとして拒否され、従わないものには罰を与え、その結果として永遠の隔たりを生んだ。しかし日本はアメリカの「素晴らしい文明」を素直に受け入れた。もちろんこれは日本の卑屈な適応によるものなのだが、こうしてアメリカの自己欺瞞と日本の「尊大さの反動としての卑屈さ」は奇妙な幻想の一致を見て世界史上稀な強力な同盟を生んだ。所々でこの幻想は綻び、キッシンジャーが「属国・日本」と口走ったり、肥大した内的自我を引き受けている右翼がアメリカからの独立を叫んだりする。アメリカは自らの幻想に従わざるを得ない流れで日本に過大に譲歩したり、日本はそれを意識的にか無意識的にか利用する。アメリカと日本は互いにときどき疑心暗鬼に陥るが、今に至るまでこの関係はうまいこと続いている。
もう私は岸田秀の考え方に首肯首肯で何度も驚き感動しこれを広めるためにこの文章を書いているわけであるが、根本的な点として同意できない点もある。それは、題にもあるように、日本とアメリカが「正常な」関係を結べるかどうかということを考察していることである。それが可能か不可能かということについて疑義を挟みたいのではない。私は人と人、国家と国家、あるいは人と社会という非対称な関係も含めて、そもそも正常な関係というものは存在するのだろうかという点について疑問である。岸田秀は人間その他社会の構成要素たる主体の自由な意志の存在を前提としている。私にはそんなものがあるとは思えない。結局意志というものはいわゆる「病理」の塊で出来ているのではないかというのが私の考え方だ。言い換えると、「病理」が取り除かれたあとの主体には何も残らないのではないかということだ。もちろん本能は残るとしてだ。
人間の文化や「時間の発明」なんかが人間の現実喪失から来ると主張する作者が、この結論にたどり着かないのはどうしてなのだろう。それは多分自ら語るように、作者のそもそもの始まりが継母への憎悪からきており、とてもそれを世の普通と考えることが出来ないからだろうと思われる。
この本は感銘を受けた翻訳者や学者の手によって英訳されアメリカで自費出版されたそうである。このネット全盛の中で果たしてどれだけの反響があるのか疑わしい。私たちのようなネット世代が海外の掲示板に中継する必要があるのではないだろうか。小林よしのり「戦争論」ブーム以来の使命感が私の中に起きそうだったのだが、今回は私ももう若くないので英語がたるくてやる気が起きない。誰かがんばってほしい。ハワイの大学生はいまだにハワイを正義で解放したと信じている。
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