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猶予の月 (上) 270ページまで
月(カミス)には地球(リンボス)を自分たちのシミュレーションとしてコントロールしている人々がいるという空想世界で、月(カミス)の元天才理論士の悪党バールが自分の理論を使って世界を思うがままにしようとし、他の理論士や詩人がそれを阻止するために戦う。

この作品の核は、人工衛星カミス(事実上の月)に暮らす理論士という架空の職業の人々が、惑星リンボス(事実上の地球)を自分たちの理論で制御しているところだろう。つまり地球人類は月に住む異星人によって人工的に作られた実験動物だという設定である。

それだけならこれまでにもあったアイデアなのだが、彼らが駆使する理論が独特である。世界は「時間」「実現事象」「可能事象」という三つの軸から成り、悪党バールはその中の「時間」を圧縮することで「可能事象」を自在に操り、世界を思うままにしようとする。

序盤は主人公格の詩人の青年アシリスが姉への恋心について思い悩んでいる描写から始まり、恋愛や自殺などの権利をなんでもチケットで解決できる空想未来社会の仕組みについて一通り語られたあと、姉弟の恋愛を成り立たせるために二人がシミュレータを動かそうとして偶然バールのたくらみとシンクロして舞台が地球に移って戦いが始まる。ここまで書くと少しネタバレになるだろうか。

まず色々な仕掛けが小粒だ。人類実験動物説、姉への想い、チケット制、悪党バールの人格形成、事象理論。どれもそれなりに読めはするのだが、とにかく弱い。

私が最初にこの本を放り出そうとしたのは、悪党バールが初めて地球に降り立ったときの、独自の理屈を並べ立てながら行われる訳の分からない残虐描写だった。なんだこれ。私は虚構を楽しむ精神を持ちながら読み進めたつもりだったが、登場人物たちのあまりの自己完結ぶりに辟易した。そんな彼らにゴミのように扱われ、大して必然性のないエログロ描写で無残に殺される若い女性。これはひょっとして作者のサービス精神(か媚び)の発露なのだろうか。

そのうち悪党バールは自分の分身が必要だと考えて自らの子供を女たちに産ませようとするのだが、その中で選ばれたルードという女の描写がひどすぎる。ありのままの現実を受け入れる安易さと、その中で妙に強調される母性の気持ち悪さ。

詩人アシリスが理論を超越した現実を作り出すという設定はとても良かったのだが、理論を越えた現実に対処するために悪党バールが敵対する理論士イシスの手を借りようとして対話が行われるのが白々しい。もう私にはこれ以上読み進めることは出来なかった。

ハードでコミカルなSFの書き手として一流の作者が、初期短編や長編で見せた非SF的な物語描写のうまさが、この作品にもあるのだろうと期待して読み始めたのだが、まったくの期待ハズレに終わった。
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