オリガ・モリソヴナの反語法 |
旧共産圏のチェコにはロシア語で教育を行うソビエト学校があり、世界各地の共産党関係者の子弟がそこで学んでいた。その学校にあって踊りを担当していた名物教師オリガ・モリソヴナは、毒々しくも美しい老女で、クセのある反語的な罵倒が彼女のキャラクターだった。日本からの留学生だった弘世志摩は、三十数年後の今になって当時の彼女のまことしやかなホラ話が気になり、休暇を利用して彼女の過去を調べていく。ロシア語通訳者から作家になった米原万理による小説。
米原万理が亡くなってから多分大体の著作が文庫本になってきてそろそろ読むものがなくなってきたので、一番手に取りづらかったこの小説を読んでみた。解説などで池澤夏樹や亀山郁夫も書いているように、この題と分厚さは手を出しづらかったのだが、読んでみたらスイスイ読めた。もちろん面白かった。
同じ著者による「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」と構成が似ているが、あちらがほぼノンフィクションなのに比べると、こちらは実在した老教師オリガ・モリソヴナについての、スターリン時代のロシアの暗い歴史を踏まえて想像を膨らませた物語となっている。想像といっても巻末に示された膨大な参考文献に裏付けられた迫真の物語だった。
巻末のインタビューによると、この一風変わった名物教師への罷免の命令と、それに反対した教師や親たちによる文書は確かに存在し、それを見て大いに感動したことが創作のきっかけとなったのだそうだ。
さてこの作品についてほかにどう紹介したらよいだろうか。とにかく読んでみて、と言って終わりに出来るのならそうしたいところなのだけど、そうもいかないだろう。ミステリー仕立てなので筋を話すわけにはいかないし。
この物語にはいくつかの謎があって、それが徐々に解き明かされていく。オリガ・モリソヴナは自分が有名なダンサーだったと生徒たちに自慢していたが、彼女が持っていた新聞記事だと彼女の年齢と合わなかった。そこで志摩は彼女が踊っていたダンスホールを探すところから始める。ホテルで出会った現役バレリーナや衣装係の老女、それに旧友で図書館司書になっていたカーチャの助けを借り、物語のカギを握るラーゲリ(強制収容所)の手記とそれを書いた作者ガリーナの話が真相を明らかにしていく。ロシアの闇とそれに翻弄される人々の様々な物語がそこにはあった。
とにかく話の筋がいいしディテールに魅力があって最後まで面白く読めた。
子供時代の重要な時をロシア語で育ち、日本に帰ってから日本語を半ば外国語のように吸収して育った作者による文章は、まるで海外の巨匠の文章を翻訳したかのような重厚さをもっている。それでいてとにかく読みやすい。翻訳者という職業によるものだろう。
ただ難を言うと、序盤で過去と現代の話が唐突に切り替わって何度か混乱した。また、この物語の根幹にはあっと驚く仕掛けがあるのだけど、その仕掛けが淡々と描かれていて微妙に感動し損ねてしまった。自己犠牲する人物への思い入れが十分に出来なかったからだと思う。伝聞という構成の一長一短のように思った。もう一人の主役、エレオノーラ・ミハイロヴナの真実も微妙だった。ミハイロフスキーの行動にも矛盾がある。最後のとってつけたような志摩の初恋へのあいまいな説明づけもいらなかったように思う。いくら言語と文章の達人で、ものすごい読書家でも、小説を書くことについてはあまり慣れていなかったからじゃないだろうか。
この作品はフィクションなのだけど、当時実際にあった話をかき集めて構成されていると思われる。まったくの作り話よりも、こういう現実の断片から構成された話のほうがずっと面白い。
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