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ブラック・ジャック
医師免許をもたずモグリの医者として世界中を飛び回り、手術に高額の報酬を要求するアウトローの日本人天才外科医ブラック・ジャック。そんな彼の生き様には、子供の頃に遭った大事故からの奇跡の生還と、復讐の誓いがあった。日本のマンガの神様、手塚治虫の代表作。

子供の頃にハードカバーの全集を親がなぜか生協を通して買ってくれたので何度も読んだのだけど、その全集にはすべての作品が収録されていないらしいということが分かった。いずれ通常の単行本で全部の話を読んでみたいと思っていたのだけど、入手の面で難があったので結局別の全集を読んでみた。

主人公ブラック・ジャックにしか治せない難しい手術により生死が絡む連作短編なので、毎回毎回感動的なショートストーリーが繰り広げられる。二十数ページそこそこで毎回しっかり盛り上がって完結する。中には首を傾げたくなるようなヘンな話もあるけれど、驚異的な打率でなにかしらの感動が得られる素晴らしい作品だと思う。

一応メインストーリー的なものがあって、ブラック・ジャックこと間黒男が幼い頃に遭った不発弾爆発事故の関係者を探し出して復讐するのと、彼を手術で救ってくれた恩師の本間先生をめぐる話、事故の犠牲になった母子を置いて愛人と香港に高跳びした父親との確執の話なんかがある。サイドストーリーとして、ブラック・ジャックがかつて想いを寄せていた女性の話など、ブラック・ジャックの過去に絡んだいくつかのエピソードがある。残りは単にブラック・ジャックの金稼ぎなのだけど、モグリの医者をやっているので正規の医者に診てもらうとまずい人々を相手にしたり、世界をまたに掛けているので世界中の色んな話があったり、患者やその家族に高額の報酬を要求することから彼ら自身の覚悟を問うような話がある。一千万から三千万の治療費を払う決意をするというのは普通の人にとっては並大抵のことではないため、必然的に彼らの意志の強さと尊さを見せられることになる。あと世にも珍しい奇病への挑戦の話も多い。

ブラック・ジャックが偽悪的なひねくれた人間であることが面白い。石ノ森章太郎・大石賢一「HOTEL」というホテルマンの仕事を扱った作品があって、一つのプロの仕事を扱ったハートウォーミングな連作短編という共通点があるのだけど、主人公サイドがいい人ばかりでいい仕事しかしない一方的な作品なので、しまいには読んでいて気持ち悪くなって途中で読むのをやめてしまった。それと比べると本作品は、ブラック・ジャックが一生懸命やったことが無駄になることがあったり、どうにもできない壁にぶつかったり、患者側のドラマを引き立たせるためにわざと悪く振る舞ったりして人間味がある。

主要登場人物は非常に限られていて、助手のピノコぐらいだと思う。18年間姉の体内に埋まっていた一人分の臓器をつなぎあわせて作った半人造人間で、精神的には幼稚園児ぐらいなのだけど18歳と言い張っていてブラック・ジャックの奥さんだと言い張っている。

ドクター・キリコという安楽死を生業にした医者がいて、どうしても助からない患者を楽に死なせることから、ブラック・ジャックと対立する。ただ面白いのは、助かるか助からないかという対決だけじゃなくて、この死神と呼ばれる医者に人助けをさせたり、一緒に事件を解決したりするエピソードがあるところ。

全集は各話を入れ替えて載せているみたいだった。全集第一話は本作品を代表するようなエピソードになっている。イタリアのマフィアのボスが難病を抱えるわが子を連れて来日してブラック・ジャックに手術をしてもらおうと大金を積むのだけど、日本の医師会が邪魔をして手術をさせず、代わりに医師会で最高の医師が正規の料金で手術をして失敗して子供を死なせてしまう。怒ったボスは医師会長の息子を銃撃して重傷にさせ、ブラック・ジャックが手術しないと助からないことになり、医師会長がブラック・ジャックに手術を懇願して終わる。

全集第二話はいきなりだけど本作品で一番のエピソードだと思う。患者は人間ではなくシャチだ。ブラック・ジャックは海に面した崖の上に平屋の診療所を開いているのだけど、ある日ピノコと二人で近くの海岸を散歩すると、ピノコが真珠を発見する。話は回想で過去に飛び、開業まもない頃の初めての患者の話をブラック・ジャックが始める。傷ついたシャチを助けたブラック・ジャックは、そのシャチになつかれ、泳ぎ方を教わるようになり、たびたびそのシャチが傷の治療に訪れるようになる。真珠はあるときからそのシャチが口にくわえて持ってくるようになっていた。しかし町でよくない噂を聞く。人食いシャチが海で暴れまわっているというのだ。ついにそのシャチが子供を殺したというので、漁師たちが逆襲してシャチを追い詰めて大傷を負わせたものの逃げられたという。それを聞いたブラック・ジャックが海岸へ行ってみると…。

大金を積まれたらどんな悪人の命も救うというのがブラック・ジャックなので、この若い頃の話はちょっと違っている。ひょっとしてこの時の葛藤と後悔が、その後の考え方に影響したのかもしれない。というブラック・ジャックの人間的な描写が味わい深いとともに、傷を治してほしいという患者の強い気持ちが、物言えぬシャチの一途な行動と、ブラック・ジャックによる無視によって、これ以上ないほど純粋に描かれていると思う。

Wikipediaを見てみると、手塚治虫の知識が結構間違っているとあって驚いたのだけど、それは無理がないのかもしれない。いくら医学博士だといっても、臨床経験がほとんどないそうだし、医者というのは生涯勉強しつづけなければならず、あれだけマンガを描いていたら最新の医療について勉強する時間なんてなかっただろう。それでも知識は生半可ではなく、日本のマンガの神様が医学においても相当な知識を持つという奇跡があってこその作品…って別に知識なんてなくても取材でどうにかできることなのかもしれないな。臨床経験つまり患者を相手にしたことがほとんどないっていうのだから。渡辺淳一みたいに元医者だけど代表作が不倫小説の作家もいるし。全然どうでもいいことだけどWikipedia見ていたら自分は渡辺淳一が卒業した小学校に三年間だけ通っていたことが分かってびっくりした。世界的には医療もののテレビドラマ「ER」の脚本を書いたマイケル・クライトンも医学博士みたいだ。

あざやかなメスさばきという表現があるけれど、残念ながら近年の外科手術はカテーテルという管というか細いロボットアームで体に小さな穴をあけて突っ込んでカメラを見て操作して行うやり方が主流になってきている。人間は結局肉のかたまりなので、刺せば体内のどこにでも到達する。太ももや腕の付け根から管を刺して心臓の手術をすることさえできる。メスを使う場合でも直接持つのではなく、人間の手の動きを数分の一小さくしてロボットアームで再現することにより、手先があまり器用でない医者でも細かい手術が出来る。また、医者の仕事も変わってきていて、カルテは電子化されているのでCTだかMRTで撮った画像はスクロールバーで動かせるし、患者やその家族に治療方法を説明することが重視されることから、一つ一つの手術のたびに計画書を書いたりプレゼンしたりスケジュール管理したり、大きい手術となるとたとえば脳神経外科と循環器科とで相談してやり方を決めて麻酔科に相談したりと、大企業のサラリーマンと変わらないんじゃないかと思ってしまう。そんな医者の物語なんてのも読んでみたい気もする。あ、テレビドラマでそういうのあったのかな。海堂尊「チーム・バチスタの栄光」がそうなんだろうか。

話がだいぶそれたけれど、この作品はその点で言えば非常に分かりやすく、重病や重傷をメスさばきで治していく。毎回ハッピーエンドではなく、大人の味わいがたっぷりある。それでいて子供が読んでも面白い。マンガ好きにとっては、読まないともったいない作品だと思う。

一つ書くのを忘れていたけれど、作者の手塚治虫は名声を得たあとも最後まで流行作家でいたいという想いを抱き続けていた人みたいで、一時期すっかり過去の人みたいになったけれど、この作品は作者の最後のそして最大のヒットとなった。全世界で一億数千万部も売れたらしい(尾田栄一郎「ONE PIECE」は三億冊以上売れているらしいけど)。その執念は強く尊敬せずにはいられない。
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