ノンフィクション
社会科学
「知」のソフトウェア
立花 隆 (講談社現代新書)
最高(50点)
2006年1月28日
ノンフィクション作家として有名な立花隆が、自分の仕事のやりかたを紹介した本。雑誌で連載していた頃の題が「情報のインプット&アウトプット」であるとおり、情報をどのように集め、管理し、それを執筆に生かすのかというのを、理論的に説明している。
私がなぜそもそもこの本を手にとって買ったのかよく覚えていないのだが、なんとなく定番のようだし、一度目を通しておこうというようなどうでもいい理由だったのは確かである。そういう考えでなんとなく気が進まないながらも読んでいたら、作者から手厳しい言葉をもらった。人生の時間は限られているのだから、つまらん本は読むなと言う。作者自身自戒を込めて言い訳がましくも言うように、こういう目的意識のない読書も今回のように当たりを引き当てることになるのである。
私はこの本を読む前に、立花隆の名を一躍世に知らしめた田中角栄についての記事がどのように書かれたかということについて書かれた本を読んでいるのだが、その本が立花隆の仕事のやり方をほとんど説明していなかったということが、この本を読んでよく分かった。私はこの人が文系の人だと思っていたが、それは大きな勘違いだった。文系とか理系とかいう分け方もナンセンスというより失礼なのかもしれないが、立花隆=理系の人と言うとすごくしっくりくる。
自分の情報活動を分析して、資料を調べるのがインプットで執筆がアウトプットだ、と題をつけたのは、私のようなコンピュータサイエンスを専攻した人間にとっては当たり前すぎることなのだが、それをこの人はコンピュータがろくに広まっていない1983年に当たり前のように使っている。
立花隆は東大の先生もやっていて、今のイメージからするとジャーナリストより教養人のイメージが強いのではないかと思う。こうして20年前の著作を読んでみると、いまこの人が大学の先生をやっているのはごくごく自然の成り行きだと思える。随所に知性がにじみ出ており、しかも必要なだけしか述べておらず、憎らしい。この本は売れたみたいだから、この本がめぐりめぐって色んなものを通じて私の考え方に大きな影響を与えているような気がして怖い。
立花隆の創作方法は、河合隼男などのユング派の考え方そのものだ。人間の無意識の力はすごいんだという前提で、インプットとアウトプットを意識に縛られないようにしている。ユングのユの字も出てこないのは不思議だが、意識して取り入れているとしか思えないほど忠実に実践している。ちなみに小説家の筒井康隆も無意識を利用していると言っているし、少なくない作家が自分の作品を書くときに登場人物を勝手に動くに任せると言っているように、無意識が創作に重要なのは広く知られている。ただ私は、この手法はあくまでフィクションにしか当てはまらないのかと思っていた。ノンフィクションでも有効なのだ。
無意識のところ以外はとても論理的だ。自分の知らない分野についての文章を書くときに、どのような本を読めば効率よくインプットできるか、きわめてドライに書いている。つまらん本は捨てろだとか、違う入門書を三冊買って一回ずつ読んだほうが一冊を読み返すよりいいとか、翻訳に悪文が多いとか、気持ちいいほど大胆に私たちの常識を砕いていく。最初のほうで、新聞記事のスクラップの仕方、という非常に具体的な説明から入ったのを読んだときは、ああこの本はこういう本なんだと多少諦めみたいなものが私の頭に浮かんだが、読み進むにつれて心地よい納得の連続だった。
さてじゃあこの人のようなすばらしい文章をどうやって書けるようになるのかというアウトプットの段にくると、作者はあっさり切り捨てる。レトリックなんて勉強するなだとか、文体なんて狙って作れるもんじゃないから自分の文体を自然に任せて探せとか、まずインプットの質と量を増やすことが重要であって、少ないインプットから水増しして書くのは最悪だと断じている。
あー、なんか書いていてあまり乗らないのでこのへんにしておくが、とにかくとてもいい本なのでぜひ読んでみて欲しい。プロのちゃんとしたジャーナリストの活動に納得した。
私がなぜそもそもこの本を手にとって買ったのかよく覚えていないのだが、なんとなく定番のようだし、一度目を通しておこうというようなどうでもいい理由だったのは確かである。そういう考えでなんとなく気が進まないながらも読んでいたら、作者から手厳しい言葉をもらった。人生の時間は限られているのだから、つまらん本は読むなと言う。作者自身自戒を込めて言い訳がましくも言うように、こういう目的意識のない読書も今回のように当たりを引き当てることになるのである。
私はこの本を読む前に、立花隆の名を一躍世に知らしめた田中角栄についての記事がどのように書かれたかということについて書かれた本を読んでいるのだが、その本が立花隆の仕事のやり方をほとんど説明していなかったということが、この本を読んでよく分かった。私はこの人が文系の人だと思っていたが、それは大きな勘違いだった。文系とか理系とかいう分け方もナンセンスというより失礼なのかもしれないが、立花隆=理系の人と言うとすごくしっくりくる。
自分の情報活動を分析して、資料を調べるのがインプットで執筆がアウトプットだ、と題をつけたのは、私のようなコンピュータサイエンスを専攻した人間にとっては当たり前すぎることなのだが、それをこの人はコンピュータがろくに広まっていない1983年に当たり前のように使っている。
立花隆は東大の先生もやっていて、今のイメージからするとジャーナリストより教養人のイメージが強いのではないかと思う。こうして20年前の著作を読んでみると、いまこの人が大学の先生をやっているのはごくごく自然の成り行きだと思える。随所に知性がにじみ出ており、しかも必要なだけしか述べておらず、憎らしい。この本は売れたみたいだから、この本がめぐりめぐって色んなものを通じて私の考え方に大きな影響を与えているような気がして怖い。
立花隆の創作方法は、河合隼男などのユング派の考え方そのものだ。人間の無意識の力はすごいんだという前提で、インプットとアウトプットを意識に縛られないようにしている。ユングのユの字も出てこないのは不思議だが、意識して取り入れているとしか思えないほど忠実に実践している。ちなみに小説家の筒井康隆も無意識を利用していると言っているし、少なくない作家が自分の作品を書くときに登場人物を勝手に動くに任せると言っているように、無意識が創作に重要なのは広く知られている。ただ私は、この手法はあくまでフィクションにしか当てはまらないのかと思っていた。ノンフィクションでも有効なのだ。
無意識のところ以外はとても論理的だ。自分の知らない分野についての文章を書くときに、どのような本を読めば効率よくインプットできるか、きわめてドライに書いている。つまらん本は捨てろだとか、違う入門書を三冊買って一回ずつ読んだほうが一冊を読み返すよりいいとか、翻訳に悪文が多いとか、気持ちいいほど大胆に私たちの常識を砕いていく。最初のほうで、新聞記事のスクラップの仕方、という非常に具体的な説明から入ったのを読んだときは、ああこの本はこういう本なんだと多少諦めみたいなものが私の頭に浮かんだが、読み進むにつれて心地よい納得の連続だった。
さてじゃあこの人のようなすばらしい文章をどうやって書けるようになるのかというアウトプットの段にくると、作者はあっさり切り捨てる。レトリックなんて勉強するなだとか、文体なんて狙って作れるもんじゃないから自分の文体を自然に任せて探せとか、まずインプットの質と量を増やすことが重要であって、少ないインプットから水増しして書くのは最悪だと断じている。
あー、なんか書いていてあまり乗らないのでこのへんにしておくが、とにかくとてもいい本なのでぜひ読んでみて欲しい。プロのちゃんとしたジャーナリストの活動に納得した。