映画、テレビ番組、舞台芸術
邦画
GO
行定勲 監督
まあまあ(10点)
2003年4月30日
窪塚洋介が演じる在日朝鮮人の若者が主人公の映画。民族学校から日本の高校に転校し、差別で荒れていたところに紫咲コウ演じる女の子と出会ったり、民族学校の仲間たちとの交流、父親との衝突が描かれる。民族や国家のバックグラウンドとは何かを問う作品。
オープニングの乱闘シーンには呆れたが、序盤はとにかくテンポがいい。音楽もいい。先輩役の山本太郎がカッコよすぎ。生き生きとした荒れっぷりはスカっとする。
父親役に山崎努、母親役に大竹しのぶという豪華キャスト。特に山崎努がまたまたかっこいい。自分の主義主張を不器用からか言葉にはしないが体現しているさまはいい。
中盤になってヒロインが出てきて恋愛モノになってからダレる。ヒロインのキャラは作りすぎ。キモいニセ天然少女。天然のはずなのに、終盤ではおおよそありえない態度を取り、非常に興ざめ。詳しくは書かない。
演出は最高。序盤の良いテンポは、フィルムを分断したような手法を使っている。中盤の暗めで静かなシーン、終盤になって折りたたんでいくような効果。サッカーボールをポーンと蹴って「行け」っていうシーンにもジーンとくる。これがこの作品の題名の由来か。
脚本は、小手先は最高。民族学校で、日本語を禁止されている中で、一人だけ尖ったのがいて、鬼教師にも毅然と抗議する。「めっちゃ○○○したい」にしっくりくる言葉が朝鮮語にはないから日本語を使った、と大真面目で言うのだが、この「○○○」が面白すぎ。もうとにかく笑った。
ここまで褒めておいて、だがやはりこの映画は駄作だと言わなければならないのは残念だ。というのは、思想を語るやりかたがクソすぎる。ラストなんてもう見てられない。在日朝鮮人を扱っているので難しいのは分かるのだが、そのへんの小説好きに書かせたほうがまだマシなんじゃないかとさえ思う。少なくともいまどきの若い日本人で、中国人や朝鮮人とは付き合うなと言われて育つやつがいるのか?
唯一素晴らしいと思ったのは、玄関に置いてある写真、父親と母親が夫婦でハワイ旅行やスペインに行ったときの写真だ。父親が、自分の背負っているものを子供にも背負わせなければならない、だけど一つやれることがあったからやっておいた、それをあらわすのがその旅行写真なのだ。
在日韓国朝鮮人というレッテルがあってそれを子は親から引き継がなければならない、という強迫観念は確かにないとは言えないかもしれない。私はまず在日ではないし知り合いにもいたかどうか分からないのでなんとも言えない。ただ、客観的事実を言えば、在日韓国朝鮮人というのは一種の特権なのだ。韓国や朝鮮の国籍を持ちながら、戦後の特例により日本人とほとんど変わらない待遇を日本国が保障しているのだ。日本人として暮らしていきたければ、日本国籍をとればいいのだ。自由の国アメリカ(今回は突っ込まないように)ですら、大人になってからも自国以外の国籍を持つことは認めていないのだ。
あ、そういえば、在日がいかに差別されているかを訴えていた人とネット上でやりとりしたことはある。メーリングリストだったし、言い争いを向こうが避けたのかもしれないが、日本人の持つ排他性については私も認めざるをえなかったが、それ以外の点ではむしろ在日の人々の意識の問題なのだという
ことで着地した。
現に今日、在日の人々の多くは帰化をしたかする方向にあるらしい。
そういった諸々の複雑な事情をまったく取り扱わず、在日というバックグラウンド、日本人による差別、この二点をただシンプルに扱ったこの映画は、問題を小さく扱いすぎていて、むしろ害になっているのではないだろうか。
この映画で主人公・ヒロインに次いで重要な位置を与えられている民族学校の秀才・ジョンイルの悲劇は、まさに在日の過剰な被害者意識を象徴しているのではないだろうか。
思想的な作品としてもダメ、恋愛を扱った作品としてもダメ。でも残った部分はかなりよく出来ている。思想と恋愛を捨てても娯楽映画として楽しむ自信があれば、見て損はないと思うが、要するにそんなトンデモ映画だということ。
オープニングの乱闘シーンには呆れたが、序盤はとにかくテンポがいい。音楽もいい。先輩役の山本太郎がカッコよすぎ。生き生きとした荒れっぷりはスカっとする。
父親役に山崎努、母親役に大竹しのぶという豪華キャスト。特に山崎努がまたまたかっこいい。自分の主義主張を不器用からか言葉にはしないが体現しているさまはいい。
中盤になってヒロインが出てきて恋愛モノになってからダレる。ヒロインのキャラは作りすぎ。キモいニセ天然少女。天然のはずなのに、終盤ではおおよそありえない態度を取り、非常に興ざめ。詳しくは書かない。
演出は最高。序盤の良いテンポは、フィルムを分断したような手法を使っている。中盤の暗めで静かなシーン、終盤になって折りたたんでいくような効果。サッカーボールをポーンと蹴って「行け」っていうシーンにもジーンとくる。これがこの作品の題名の由来か。
脚本は、小手先は最高。民族学校で、日本語を禁止されている中で、一人だけ尖ったのがいて、鬼教師にも毅然と抗議する。「めっちゃ○○○したい」にしっくりくる言葉が朝鮮語にはないから日本語を使った、と大真面目で言うのだが、この「○○○」が面白すぎ。もうとにかく笑った。
ここまで褒めておいて、だがやはりこの映画は駄作だと言わなければならないのは残念だ。というのは、思想を語るやりかたがクソすぎる。ラストなんてもう見てられない。在日朝鮮人を扱っているので難しいのは分かるのだが、そのへんの小説好きに書かせたほうがまだマシなんじゃないかとさえ思う。少なくともいまどきの若い日本人で、中国人や朝鮮人とは付き合うなと言われて育つやつがいるのか?
唯一素晴らしいと思ったのは、玄関に置いてある写真、父親と母親が夫婦でハワイ旅行やスペインに行ったときの写真だ。父親が、自分の背負っているものを子供にも背負わせなければならない、だけど一つやれることがあったからやっておいた、それをあらわすのがその旅行写真なのだ。
在日韓国朝鮮人というレッテルがあってそれを子は親から引き継がなければならない、という強迫観念は確かにないとは言えないかもしれない。私はまず在日ではないし知り合いにもいたかどうか分からないのでなんとも言えない。ただ、客観的事実を言えば、在日韓国朝鮮人というのは一種の特権なのだ。韓国や朝鮮の国籍を持ちながら、戦後の特例により日本人とほとんど変わらない待遇を日本国が保障しているのだ。日本人として暮らしていきたければ、日本国籍をとればいいのだ。自由の国アメリカ(今回は突っ込まないように)ですら、大人になってからも自国以外の国籍を持つことは認めていないのだ。
あ、そういえば、在日がいかに差別されているかを訴えていた人とネット上でやりとりしたことはある。メーリングリストだったし、言い争いを向こうが避けたのかもしれないが、日本人の持つ排他性については私も認めざるをえなかったが、それ以外の点ではむしろ在日の人々の意識の問題なのだという
ことで着地した。
現に今日、在日の人々の多くは帰化をしたかする方向にあるらしい。
そういった諸々の複雑な事情をまったく取り扱わず、在日というバックグラウンド、日本人による差別、この二点をただシンプルに扱ったこの映画は、問題を小さく扱いすぎていて、むしろ害になっているのではないだろうか。
この映画で主人公・ヒロインに次いで重要な位置を与えられている民族学校の秀才・ジョンイルの悲劇は、まさに在日の過剰な被害者意識を象徴しているのではないだろうか。
思想的な作品としてもダメ、恋愛を扱った作品としてもダメ。でも残った部分はかなりよく出来ている。思想と恋愛を捨てても娯楽映画として楽しむ自信があれば、見て損はないと思うが、要するにそんなトンデモ映画だということ。