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    岸田秀

    最高(50点)
    2007年6月2日
    ひっちぃ

    心理学の幅広い流れの中で、後世多くの批判にさらされる開祖・フロイトの理論のほうがおおむね正しいのだという立ち位置から、ネオテニー仮説(人間は胎児の形のまま成長する)を基礎に起き、社会心理と個人心理とを同一の構造とする理論を組み上げた著者が、生涯唯一の著書として全ての主張をまとめた本。

    と言いつつ実は要望によりシリーズ化され三冊(「二番煎じ・〜」と「出がらし・〜」)出ており、他にも著作が多くある。私は本シリーズとのちに新書にまとめられた「性的唯幻論序説」(文春新書)を読んだ。作者は早大の文学部心理学科からフランスのストラスブール大学に留学し、和光大学の先生をやっている。私がもっとも尊敬する学者。

    今回は再読してのレビューとなり、内容が強烈だっただけに結構中身を覚えていたのだが、改めてこの人の考え方の素晴らしさを噛み締めながら全部読み直した。

    内容は大きく四部に分けられる。

    ・国家論のような社会心理系のテーマ
    ・人間は本能から切り離され幻想で生殖している
    ・個人幻想と共同幻想の関係
    ・個人の心理の話題

    国家論は主に日本の明治維新から太平洋戦争の終結そして現代に至るまでの歴史を個人に見立てている。国を個人に見立てるというと普通の人からすれば違和感があるかもしれないが、元々精神分析学の開祖・フロイトも社会という見えやすいものの動きを見てそれを個人の心理に当てはめていったらしく、社会心理と個人心理とは極めて相関関係が深いのだそうだ。作者はここでは逆に個人心理の理論を日本という国家に適用して日本の近現代史を説明している。

    日本という人格の中の狂気に当たるのが吉田松陰なのだそうだ。黒船来襲により日本が揺れ、人々の考え方が割れる。幕府の重鎮たちは国の安全のために妥協を考えた。こうして圧力に屈服すると、吉田松陰のような反体制分子が出てくる。人間も逆らいがたい現実を受け入れれば心のどこかでゆがみが生じてしまう。吉田松陰はそんな日本の歪みの象徴だというのだ。あるべき日本の姿を守るために非現実的なことばかりするのはまさに狂人そのものだという。

    時代がくだり、自衛隊の基地で自殺した三島由紀夫もそんな狂人の一人だったと言っている。自殺は現実には何の意味もなかったが、日本のあるべき姿を守るためにその精神を示したのだとすれば説明がつく。狂った部分が社会全体に抑えられているうちは良かったが、暴走した軍部のように力を持ってしまうと社会全体が狂ってしまうのだそうだ。他にも、インディアンを虐殺して建国されたアメリカは、正義のための戦争を正当化しつづけなければならない反復強迫を負ったのだと説明している。

    生殖についてのテーマは、人間はサルなどと違って本能で生殖できなくなってしまったのだという説明から始まり、本能が壊れた代わりに幻想を作り出して補っているのだと主張している。生殖活動は本能的な快感が得られるのにどうして本能じゃないのだと疑問に思うかもしれないが、ブサイクを相手にしたくない人がほとんどだという事実を考えればいかに本能というものが頼りないか分かるはずだ。強姦されそうになったとき、自分から股を開いて「はいどうぞ。がんばって!」と言えば大抵の男は不能になる、と言っているのにもうなずるのではないだろうか。ちょっと話が外れるが2ちゃんねるではガンダムの台詞を女が口走れば萎えるという話題があった。

    このあたりの説明はちょっと難しい。人間は幼児のときに不能のまま性欲に目覚めるため、決して満足されない性欲をなだめるために倒錯する、と言って分かるだろうか。人間はサルなどと違って胎児のまま成長するのだという一連のネオテニー仮説を理論的基盤とし、満たされない欲望が人間を現実から乖離させるのだと言っている。動物は食べたいときに食べ産みたいときに産み、それが失敗したら死んだり絶滅したりするだけだ。ところが人間の特に子供は無力で、現実に適応するための欲望が満たされないため、その耐え難い状況をなんとかするために無理やりこじつけるらしい。このこじつけこそが人間を考える生き物にした。例えば、欲しいものが出来たのに困難なとき、何がなんでも手に入れようとするのではなく、あんなものは大したものではないと考えたり、他のもので代用しようとしたりする。

    性欲の解消を他のもので代用してしまうようになったことで、今度は不能じゃなくなったときにうまく性交できなくなってしまうのだそうだ。不能への恐怖があってそこから様々な性倒錯が生まれる可能性がある。フェティシズムとかSMとか。それを人間は文化とか物語でなんとかするらしい。ロマンチックラブとかお姫様幻想とか見合いとか習慣などで色々と。だからそういうものが崩れ去ってしまうと人間は不能になる。

    個人幻想と共同幻想の関係についてのテーマは、人間が現実を見失った生き物であるということから、なんとか幻想を作り出して現実の代わりに幻想に適応していくことや、幻想に適応できなかった部分が妄想になること、その理論が個人心理だけでなく社会心理にも当てはまり、個人で言う妄想のような部分が社会では禁忌になるのだと言っている。

    ちょっと分かりやすく説明してみよう。人間は人それぞれ違うから、みんなで生活していくためには考え方を合わせなければならない。すると、他人とは共有できない部分が出来てしまう。それが個人の妄想となる。厳格な社会だと、個人が社会に合わせなければならないので、どうしても合わない部分が多く出てくる。合わない部分は個人の妄想として渦巻き、押さえきれなくなった人間は狂人とみなされて社会から排除されてしまう。世の中には、厳格な社会と寛容な社会がある。たとえば、みだらな人間は厳格な社会では狂っているとみなされるが、寛容な社会では受け入れられるだろう。そういうなんでも受け入れてしまう社会は脆弱なので維持が難しい。言い換えると、社会の正気を保つために個人が狂うか、個人の正気を保つために社会が狂うか、針が両端に触れないようにバランスを取ることになる。ちなみに、狂うとか正気とかいうのはあくまで呼び方であって、あえて基準となるものがあるとすれば存続しやすいかどうかで判断しているだけで、人や社会の精神に正気も狂っているもないのだと言っている。

    最後が作者周辺のわりと個人的なことだ。忙しい忙しいと言っている人は自分がそう思いたがっているだけとか、主観と客観が乖離している理由、太宰治「人間失格」の主人公の性格をどうしようもない卑劣漢だと分析してみせたり、心理学という学問の迷走について語ったりしている。なかでも作者自身の生い立ちの自己分析は素晴らしく、母親の期待が重荷になって頭がおかしくなっていた子供の頃のことを極めて冷静に分析している。この文章に感動した映画監督・伊丹十三があとがきをよせているぐらいだ。

    この本は私にとって最高のものでいわば聖書にあたるのだが批判する点もある。

    まず作者はフロイトのことをフロイドと書いている。ドイツ人Sigmund Freudの読み方はフロイトが正しい。英語読み(かフランス語読み?)しているのだ。

    構成に難がある。この本は後ろから読んだほうがいいんじゃないかと思う。いきなり国家論ではつまらなく感じる人が多いと思う。

    科学的じゃないと批判する人もいるだろうが、私はこんなものだと思う。作者は最初のほうで、理論の要件について簡潔かつ妥当に説明している。そのまま抜き出すと、

    *

    現代科学の諸発見に矛盾しないこと、それ自体に論理的一貫性があること、広範なさまざまな種類の現象を体系的に説明できること、説得力があること、わかりやすいことなどのほかには求め得ない。

    *

    これで作者をインチキ呼ばわりする人がいたら、大学から人文社会科学系の学者を全員追放したいのかと言いたい。作者はハッキリとは説明していないが学問や科学のなんたるかを熟知しているようだし、心理学自体が西洋人の必然的無駄であることも喝破している。

    擬人論の復権にはちょっと首を傾げた。強風で遮蔽物が倒れてトラブルになった隣人同士の争いが発展して放火により家が消失したとする事象を科学的に説明できるのか、という問題から、人の心に属するようなことを無理に説明するのはおかしい、などと言っている。モノに属することとヒトに属することを分けて考えるべきだという考え方は確かに妥当かもしれないが、学問の姿勢として間違っていると私は思う。作者は歯牙にも掛けていないようだがカオス理論とかファジー理論とかでがんばって説明しようとしている学者がいることも考えるべきだ。今のところまだ光は見えてこないが、ヒトに属するようなことを研究するための新たな方法論が生まれる可能性を私は強く信じている。それを理論的な心理学で成し遂げようという野心を持って欲しい。

    最後になぜ私がこの本をいまさら再読したのかというと、ブックオフで100円で売られていたからである。前は図書館で借りて読んだので手元になかったのだ。会う人ごとに配って歩きたいほどの名著なのに複雑な気持ちだ。このレビューも微力ながら岸田秀の考え方を広める役に立てばいいなと思う。

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