鍵
谷崎潤一郎 (新潮社版)
傑作(30点) 2007年6月4日 ひっちぃ
五十代のひ弱な大学教授は一回り年下の四十代の妻と妥協の産物的な性生活を送っていたが、ある年の正月明けから妻に読まれることを狙って自分の本音を日記に綴りだす。ほぼ同時期に妻も日記を書き出すのだが、互いに日記を読んでいないと言いながら実生活に日記に虚虚実実の策謀を繰り広げつつ、真実が分からないままかつてない深い性生活を送るようになっていくさまをその結末まで描いた作品。
「細雪」などで知られた大作家のご存知・谷崎潤一郎が、巨匠ご乱心かと「あの連載をやめさせろ」などと国会で問題にまでなった小説。
本作品は主人公の大学教授のカナ書きの日記と、妻・郁子のかな書きの日記とが、交互にその日の出来事を読者に示していく形を取っている。二人の主観と相手への推測が生々しくてスリリングだ。熟年夫婦なだけに互いのことをある程度理解しており、相手の嫌なところへの容赦ない記述があるかと思えば、相手への愛なんかも落ち着いて語っていたりと、人間というものをリアルに描いている。
主人公の大学教授は妻が本当はイヤらしい性格をしているくせに妙にカマトトぶるところが前々から気に入らなかったが、これまでは無理には要求したことは無かった。一方自分はそんな妻を十分に満足させられるほど精力がないことを自覚していた。そこで妻が盗み見ているであろう日記で確信犯的に予告した上で、酒に酔って倒れた妻を介抱して落ち着いて寝ているところへ、妻を全裸にしてあんなことやこんなことをやってしまう。
この熟年夫婦のほかに、木村という若い同僚の大学教授と、夫婦の娘である敏子が絡んでくる。夫婦はこの若い二人をくっつけようとして、家に誘ったり一緒に出かけたりしていたのだが、敏子のほうが木村とくっつけられるのを避けているふうでもあり、また妻・郁子のほうが木村に惚れているんじゃないかと主人公が疑ったりする。この四人がそれぞれの考えで行動するのだが、この作品ではあくまで二人の主観でしか語られていないので真実は分からない。
主人公の大学教授は、自分の妻・郁子と木村とを接近させることで、わざと嫉妬心を起こして妻との関係を盛り上げようとする。そうすることで妻に対しても報いることになるだろうと考える。こうして回りくどいながら愚直なまでに自分と妻との関係を盛り上げていく。一方妻はそんな夫の考えを知ってか知らずかその企みに乗っていく。
これ以上ストーリーを解説すると興が削がれるのでここまでにしておく。
なんというか、主人公のこういう自分を省みず確信犯的にそんなに得にならないことをやろうとしちゃうところはとても共感できる。そしてそんな男のことが分かっていながら自分は知らないフリをして狡猾に利用しようとする女ってのもリアルに感じられる。娘・敏子はさらに輪を掛けたようにズルい女(?)で、作品の中では一つも明示されないが周到に動いて自分を利している。
終盤、郁子によるこの話のまとめが語られ、話が一部ひっくりかえされる。最初は単なる告白に聞こえるのだが、じっくり読んでいくと女の本性にゾクリとさせられる。そして最後の三行でトドメを刺される。なんと最後まで自分の企みではないのだと言い張る郁子。それどころか敏子への穿った見方をしてみせる(というかそっちも真実だろう)。
いままで散々言い古されたこの陳腐な表現をまさか自分が使うとも思わなかったが、もうこう言うしかないんじゃないだろうか。男は絶対女に勝てない、と。
一応最後にちょっと文句を言っておく。主人公の日記のカナ書きが読みにくい。まあ、読んでいるうちに慣れてきたし、読んでみるとやっぱり文章がうまいなと思う。
主人公の暴走(?)以外は割と地味な展開が続くので、一見なんでもないことを互いに疑心暗鬼になっていることなどの微妙なやりとりを楽しめないと面白く感じられないだろう。それとやはり登場人物たちの主観なので真実がハッキリとは語られないことから、しっかり考えて想像で補うことが出来ないとわけがわからないと思う。そういう点で読者を選ぶだろう。私自身も主人公の最後の気持ちが十分に理解できたかというと自信がないし、完全に女の気持ちになることも不可能だと思う。
真実が見事に描き出されたすごい作品だと思うのだが、私はその真実を知りたいと思わなかったし、私の琴線にも触れなかった。
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