キミは他人に鼻毛が出てますと言えるか
北尾トロ (幻冬舎文庫)
最高(50点) 2008年6月29日 ひっちぃ
ちょっとした勇気を奮えば誰でもやれないことはないが普段ほとんどの人がやらないことをあえてやってみてその結果を報告するという企画の連載を選り抜いて単行本にまとめたもの。題となっている鼻毛の注意や電車の迷惑行為の注意のような軽いものから、初恋の人に23年ぶりに告白しにいったり行方不明になった同業者を探したりする重いものまで色々。
作者の北尾トロは裁判傍聴録で有名になった主にマニアックな雑誌で活躍していたフリーライター。最近は週刊文春でもエッセイを連載している。
題を見るとありがちな企画で誰にでも書けそうな軽い読み物を想像していたが、作者の北尾トロの誠実な人柄のためかどれも妙に興奮する。面白い。かつて日本テレビの「電波少年」で松村邦弘や松本明子らが突撃して「こんなことやってみました」みたいなことをやっていたのと違い、普通の感覚を持った常識人が日常を一歩踏み出すということを豊かな感受性と素晴らしい行動力で実践して記録している。日常にこんな冒険があったのかと驚かされた。
何章かに分かれていて最初は他人に話し掛ける企画を集めている。電車や繁華街で見知らぬ他人に話しかけて飲みや遊びに誘おうとしたり、公園でいまどきの子供たちに混ざって遊べるかどうかを試したりする。全体的に残念な結果に終わる中で、一部成功すると少し感動する。都会の人間はもうほとんどダメなんだということに驚いた。郊外にやや希望あり。
二章は注意編。電車の中で迷惑行為を働く若者三人に注意する。激マズのソバ屋に本当のことを言う、競馬場の公共の席にモノを置いて占有する人を無視して席に座る、借りた金を返してくれと言う。結果を書くと興を損なうので書かないが、やっぱり今の世の中ってのは落ち着くところに落ち着いているんだなあと思った。
三章は勝負のときがきたと題が打たれている。最初の競馬一点買いは本書で一番つまらない項だったが、詩の朗読会に自作の詩で参加する企画では作者の誠実さが光る繊細な心理描写、42歳フリーターで職探しでは改めて今の日本のやりなおしのきかないところに愕然とさせられた。
四章は三つの項がある。この章は時間を越えた旅なので、過去を探索するというミステリー的なドキドキがあって特に面白い。まず23年前に好きだった女性に会いに行く話。いまどうしているのか。会ったときに一体どう思うか。事実だけを並べ立てたらどうということもない現実なのだが、人間の内面世界ってほんとに豊かで素晴らしいものなんだなと思った。
学生の頃にみんなで嫌がらせしたメガネの新任男性教師がいまどうしているのかを訪ねて謝る項もまた、その人その人の現実の見方がかけ離れていることに気づかせてくれる快い小編だった。自分の母親に父親とのなれそめの話を詳しく聞きに行く話は、内容としてはどこにでもありそうな案外ありきたりな話だが、一つのケースを具体的に詳しく聞きだして書いているところにリアリティがあって良かった。
最終章は本来この本に納められるはずではなかったそうだが失踪した同業者の行方を追ったレポートになっている。一人の男の破綻のドラマ。といってもショボい話ではあるのだが、イタくても笑い飛ばせない迫力がある。
深い。個人のちょっとした勇気の企画が、ここまで社会的、文学的になることに何度も感動した。なおかつ面白い。このあとどうなるのか期待させ、それを裏切らない。客観的事実からするとどうということのない結末であっても、心理的に補われていて読後感がいい。人によってはグダグダと言い訳を書かれているようで気に入らないかもしれないが、作者のこの感性があってこその素晴らしさだ。
どこかで作者の写真を見たが、この本の中で作者が熱唱したチャーに似たかっこいいオヤジぶりに驚いた。子供はいないそうだが娘がいても嫌われなさそう。週刊文春でガラスの五十代という連載を始めたときはイラストレーターの描く太ったおやじの絵からもっとダサくて図々しそうな人を想像していた。特に最初の企画が接待ゴルフとは何なのかというレポートだったからなおさらだった。都会を冒険する椎名誠って感じ。
どんな人にも勧められる幅広い内容の作品だが、特に厭世的な人に読んで欲しい一冊だ。しょせん世の中ってこんなものだよねと思うか、こんなことをやる人がいるから自分も何かやってみようと思うか、それは人それぞれだろうけど、どちらの見方で読んでもすごく楽しめると思う。
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