春の城
阿川弘之 (新潮文庫)
傑作(30点) 2010年9月23日 ひっちぃ
東京帝国大学(東大)を繰り上げ卒業して海軍予備士官として徴用された主人公の青年が、砲火から遠い東京の司令部で敵の暗号解読の仕事をしながら、仲間たちと戦争のことや事務の女の子について話したりしておだやかに過ごす日々を送っているうちに、一人二人と前線に送られていく。文学史でも習う大作家志賀直哉に師事した阿川弘之の自伝的処女長編小説。
私はこの作者の娘の阿川佐和子のファンで、この人のエッセイにはとにかく怖くてわがままな父親のことが時々おもしろおかしく登場するので、この親父がどんな作品を書いているのかだんだん興味を持ってきて買って読んでみた。
うーんこれはたぶん青春小説なんだろうなあ。仲間との交友の描写が多い。なかでも同じ司令部の事務の女性についての話が中心だった。第二次世界大戦の真っ只中なのにこのおだやかな日々はいったいなんなんだろうとちょっと面白い。しかも司令部で一番美人だと評判の女性のあだ名が「ブルー」と思いっきり英語なのがウケる。陸軍と違って海軍は先取的だったという作者の話そのままだった。さらに、主人公の青年が仲間のために半ば強引にキューピッドを引き受け、仲間と「ブルー」が交際するようにあの手この手をつくすなんていう話まである。当時の男女交際から結婚にいたるまでのプロセスが分かって面白い。まあ彼らは東大卒のエリートだし司令部に勤める女性たちも身元のしっかりしたいいところのお嬢さんばかりみたいだから、あくまで特定の層でのことなのだろう。主人公の青年が自分の気に入った女性を仲間うちに喋ると、あの女はやめておけと仲間たちから諌められるものの、あくまで自分の感覚にしたがって興信所を利用したりわざわざ女の母校まで足を運んで評判を聞いたりする描写まである。
それとは別に主人公の青年には地元に兄妹ぐるみで付き合いのあった女性がいて、双方悪からず思っていたのだけど、いざ結婚という具体的な話が持ち上がってくると、青年はこれからの日本への不安もあってか結婚する気になれず、かといってきっぱり断る気にもなれずにズルズルと先延ばしにしていた。女性の側が実際にどんな気持ちだったのか具体的な描写はないが、どうやらあきらめきれないようだとそれからの見合い話にも乗らずにずっと一人でいた、みたいな伝聞がじんわりくる。
戦争が進むにつれて一人また一人と前線に送られていく。送られる場所はそれぞれで、散々悲嘆にくれて愚痴をこぼしまくった人がその後僻地の基地でボヤきながらも平穏な日々を送っていたり、かと思ったら軍艦付の士官に転出していってその軍艦が沈んであっけなく戦死したりする。
物語の終盤には主人公も中国大陸の小さな通信基地に転出する。そこでも暗号解読の仕事をすることになるのだけど、むちゃくちゃ性格が悪い先任士官にいいようにされて散々な目にあったりやりかえしたりする話になる。前線基地の近くにおいしい料理屋があってたまにおいしいものを食べたりもできた。でこのあと話がどうなるのかと思ったら、地元に原爆が落とされて終戦になって戦後の町並みを仲間の一人と歩く描写があって物語はあっさり終わってしまう。
物語としての筋は結構拍子抜けなのだけど、その分自伝的小説ならではのリアリティがとても魅力的で、こんななにげない話なのにぐいぐいと読めた。
暗号解読を国文科卒の人間にやらせていたのはなぜなのだろう。そのことからして旧日本軍の暗号に対する安易な考え方が分かるようだ。いまじゃ数学の範囲に属するのは明らかなのに。でも主人公はがんばって暗号を解こうとする。暗号についての具体的な描写が読者に謎解きのストーリーまで楽しませてくれる。たとえば敵の空襲がどこを目標として何機構成なのかという情報が敵から発信されていて、それを傍受して数少ない規則性や実際の空襲部隊についての観測をもとに解読しようとする。
軍艦大好き親父として知られる作家なだけに、バリバリの戦記ものを期待してしまうと大幅に肩透かしを食うことになるのだけど、私にとっては面白い誤算だった。日本は第二次世界大戦で軍人と市民あわせて四百万人程度死んだらしいけれど、実際に激しい戦争になったのは太平洋の小島だけだし、中国大陸なんかでは意外に戦闘が少なく、空襲で大きな被害を受けたのも都市部だけで、田舎では食べ物もいっぱいあってほとんど飢えていなかった。もうだいぶ広く知られるようになったと思うのでいまさらではあるけれど、戦時中がひたすら暗くて悲惨な時代だったというのが大嘘だというのがこの作品でも分かる。
ところで、日本の戦死者の半分以上が餓死だったというのがものすごく恐ろしく思えてならない。日本の官僚の無能さをこれ以上なく物語っているんじゃないだろうか。いまの日本には戦争はないけれど、自殺者と引きこもりと失業者を増やし続けているのは、戦争が終わっても日本は何も変わっていないどころかむしろ悪くなっていっているのではないか。
(最終更新日: 2010年9月26日 by ひっちぃ)
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