パラリンピック
国際パラリンピック委員会
駄作(-30点) 2018年8月26日 ひっちぃ
四年に一度のオリンピックのあとに開かれる、障がい者だけが出場できる国際スポーツ大会。
正直ほとんどの人が興味を持っていないと思うので、大々的にテレビやニュースで取り上げるのはやめてほしい。炎上狙いで言っているように取られるかもしれないけれど、もとより炎上すら起きないネット上の僻地だし、冷静に考えてもらいたいので書くことにした。
そもそもオリンピック自体が得体のしれない金儲けのためのものだというもっともな批判はいったん置いておくとして、それでも一流のアスリートたちがそれぞれ国の威信や個人の栄誉なんかを掛けてスポーツで戦うというオリンピックは見る価値のある素晴らしいコンテンツだと思う。
じゃあ障がい者だけが出場できるという逆差別(?)のもとで開かれるスポーツ大会にはそこまで価値のあるものなのだろうか?
格闘技たとえばボクシングや柔道なんかの大会では、体重別に競技が行われている。なぜかというと、体重差があったら重い方が圧倒的に有利だから。もしこれらの競技に無差別級しかなかったとしたらどうだろうか。体重別にクラスが分かれていた方が、活躍できる人が多くなり、見ごたえのある試合が増えるんじゃないだろうか。男女別々にやっているのも同じことだ。
じゃあそれと同じように、障がい者というクラスというかレギュレーションも、体重別や男女別と同じように見ごたえのあるものなのだろうか?自分はまったくそう思わない。そもそも障がい者の母数が少なすぎる。それに障がい自体に何の必然性もない。たとえば、左利きだけの砲丸投げ大会なんて意味があるだろうか?足の短い人だけが出場できる陸上競技大会なんて見たいだろうか?
障がいを乗り越えて体を鍛えた、という物語に価値があるんだろうか。なるほどそういう価値ならあると思う。だけど、出場選手にその自覚はあるのだろうか。彼らは純粋にスポーツマンとして競技しているのだと思うし、これは自分の勝手な想像だけどあまり自分自身の物語を見せたくないと思う。がんばっている自分の姿がきっと同じような障害を持った誰かを勇気づけるだろうということは思っているんだろうけれど、母数が少なすぎる。
身体障がい者がわざわざ体を鍛え上げるのはそんなに意味のあることとは思えない。素直に体以外の頭脳や手先なんかで勝負したほうが個人としても社会全体としてもいいと思う。頭の悪い人間が無理して大学に行って学問をする必要なんてないのと同様に、体の悪い人間が無理してスポーツする必要なんてない。もちろん好きならやればいいと思うけれど、それを社会全体が見守る必要なんてない。
結局パラリンピックってなんのためにやっているのかというと、金儲け、ということになる。その金は誰が払っているのかというと、社会全体つまり私たちが払っている。その金は、広告代理店やオリンピック委員会の理事たち(どうやって選ばれているのかまったく透明性のない民間団体)のもとへと行っている。別にやるなとは言わないけれど、こんなに大きな予算規模で障がいをエサに開く必要はないと思う。見たい人だけ見ればいいのだから、いまならネットだけでやったほうが社会のリソース的にも効率がいい。
東京オリンピックのボランティア募集もネットでは大きな問題として取り上げられている。自分たちだけ儲けておいて、様々な雑用をボランティアどころか手弁当でさせようとしている。まあ金払えってことになると結局都や国のお金から出すことになって結局税金になりそうなのだけど、それも本来はスポンサー料から出すべきものだ。
民放がやっている24時間テレビのチャリティも、日本では芸能人の高額のギャラと障がい者の雀の涙の謝礼金との落差が伝えられており、ひどい話だと思う。
チャリティという名の金儲けは法律で規制すべきだと思う。
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