やがて君になる アニメ版
監督:加藤誠 原作:仲谷鳰 シリーズ構成・脚本:花田十輝
まあまあ(10点) 2019年12月2日 ひっちぃ
恋愛になんとなく憧れながらまったくそんな感情を抱けそうになかった少女が、人気者の女性の先輩に突如好かれて好意をぶつけられて戸惑っているうちに、なんとなくもやもやした感情が芽生えてくる。百合マンガが原作のアニメ。
既に原作に手を出していたところ2018年の年末に掛けてアニメ化されたので見てみた。原作のほうは自分としては実のところ途中から展開が不安になりだしたのであまり期待せずにこのアニメ版を視聴したのだけど、割といい感じに物語に収集が付けられた気がした。これはアニメ版のほうがいい稀なパターンか?と思って原作のほうの完結を待っていたら、また違った感じで終わったのでちょっと感想を書いておくことにする。
原作とアニメの何が違うかって、完璧な先輩こと七海燈子が「自分を好きにならないで」と言う理由だった。アニメ版は、七海燈子が自分自身のことを嫌いなので、そんな自分のことを好きになるような人は好きになれない、という理屈だった。それに対して原作のほうは、人間なんて常に変わってしまうものなのだから、自分のことを好きという人は自分の変化を受け入れない人ってことなので好きになれない、という説明がつけられた。
まずアニメ版について考えてみると、七海燈子は姉の虚像に引きずられている人なので、姉のようになりたいのになれないから自分が嫌いなのか、自分は自分なのに姉と比較されて姉のように振る舞うことを求められるので姉の虚像としての自分が嫌いなのか、どちらかということになると思う。
それに対して原作のほうは、要は虚像ばかり見ている人のことは好きになれないということなのだけど、主人公の小糸侑には思いっきり実像(?)を見せている。じゃあ好きになってほしくない理由なんてないじゃんってことになる。まあ「好きにならないで」は最初の方に出た言葉なのでそこからすぐに変わったのかもしれない。要は単なるすれちがいということか。
ここで思い出してほしい。なぜ七海燈子が小糸侑に惚れたのかを。彼女がとある男子生徒からの告白を携帯で受けてそれを戸惑いながら断っている姿を見たからだ。要は、好意をぶつけられて戸惑っている彼女がかわいかったから好きになった。じゃあそんなかわいい彼女を見続けるにはどうしたらいいか?自分が一方的に小糸侑に好意をぶつけて困らせてやればいい。それには重要な要件があって、彼女が自分を好きになってしまったらダメなのだ。実はこれが七海燈子の本心なのではないだろうか。
そんな自分勝手な振る舞いが、彼女を真剣に悩ませてしまっていた。彼女からの告白を受けた時、七海燈子の心の中はまず申し訳なかったという気持ちのほうが強かった。そんな本心は言えないから、あとで無自覚に適当なことを言ってごまかしたんじゃないだろうか。彼女の気持ちなんて考えずに彼女に甘えていた自分がいて、姉の虚像を振り払って新しい自分を作るために彼女を利用していたことに気づかされた。最終的に彼女への感謝とともにいとおしさを感じるようになったのではないか。
ちょっと深読みしすぎたところもあるかもしれないけれど、原作の流れとしてはこんな感じだと思う。アニメ化のときに原作の筋書きがどの程度連携されたのか知らないけれど、アニメのほうはそのあたりが良く言えば分かりやすくなったし、悪く言えば浅くなったんだと思う。
でもこれは原作の悪い面でもあると思う。そもそも七海燈子の「好きにならないで」という言葉に無理があるんじゃないだろうか。端的に言えば理屈っぽすぎる。七海燈子が佐伯沙弥香を振るシーンなんか特にそう思った。みんなそれぞれ考えさせられることを言っているのに、なんかかみ合っていないというか、入ってこないというか。
たとえば小糸侑が、自分は誰かを情熱的に愛するのではなく、誰の愛を受け入れるのかを選ぶ側の人間なんだと言うシーンがある。これはすごくいいことを言っていると思うのだけど、この展開で小糸侑が言うセリフじゃないと思う。思いっきり自分から告白してるわけだし。この告白が仮に選んだ側の人間としての確信を持ったものであったとしても、一回振られるという意味の通らない展開となってしまっている。
まあだから、原作の方が深いけれどアニメの方が完成度は上だったと思う。というわけで、どっちを見るか決めるときはそのつもりで選んだ方がいいと思う。自分はまずアニメのほうを見た方がいいと思う。
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